夢見がちな日々2

中越千春です。

生きる

一昨日と先週のWワークの日が思いのほか辛過ぎた。
接客業と接客業のWワークなので、テンションを落としている暇は無い。笑顔で接客を強いられる。体は昼間の仕事ですでに疲れる。働く以外の別のことをしなきゃ狂いそうな感じだったけど、生活があるのでどうしても働かねばならない。
ちょっとキてるかなわたし。
おやつも最近超食べちゃう。チョコパイ、菓子パン、ミスドのドーナツ(108円セールの為)などを仕事後に買った分だけパクパク全部食べてしまう。
やっぱりキてるのかな。

おんがく。
誰に聴いてもらえばいいかわからないという気持ちが起きてしまった。
この東京では、知り合いだからとか関係無い、ただ良い人が残るし、声をかけられるし、ネットワークを築けるし。
ライブをしてもあまり人を呼べないし、ネットを利用しても多くの人には届ききらない。
周りとの差を感じて、虚しくなって、うたうのがなんだか苦しくなって。
高知のときの強さはどこへやら。
生活も苦しいし、家族もいないし、何でここにいるんだろうとか思って。
辞めて帰ってしまえば楽になるのではとも考えたが、今辞めて、帰ったところで、またきっと私は悶々として過ごす。
まだまだやりきれていない。
それに気づいたことがある。
ここで鳴る音楽を聴いてから、自分にはやれていないことがまだまだ多すぎると思った。何年もやってきたつもりだったけど、本当に、やってきた「つもり」だった。そのつもりを支えにしてしまっていた。よく考えたら、しっかりやろうなんてほんとに思ったの、ほんの最近。
もう若さを武器にもできないし、時間ばっかりかかっちゃうし、今までやってきたことがあるのに、降り出しと捉えるのは怖くて勇気がいるけど、新しくここからだと、思わなければ。
試される、現実を見せる、この場所で。

結局は、誰かと違った誇れる部分を持ち、誰かに必要とされたいだけの思いかもしれない。
でも、確かにわたしを救った音楽で、誰かを救える人になれたら、これ以上はないと思うよ。
諦めきれない憧れ。

あとは、こんな活動の中でも、希望はあるんだ。聴いてくれる人が、全く、いないわけじゃないんだ。
ありがとうございます。
少しの希望を信じるよ。

今の自信が減っている状態でステージには立ち続けられないから、やっぱり少しライブはお休みします。
ステージは強くしてくれる場所でもあるけど、いまは、すこし。
インプットで、渇いた心をたくさん光らせて、あたためて、それからたっぷり瑞々しい曲を書いて、ゆっくりしっかり練習して、音源を作って。
誰かに届くように、しっかり込めて。
手間をかけるということの大事さ。靖子ちゃんから最近教わったし、うすうす気づいていたこと。
お金も必要。生活するにも活動するのにもお金がいるから、ライブでマイナスになる資金を削って、ちゃんと動かしていかないと。心身に響く。

そうしてきっと、新しい私でステージに立てるよ。


ボロボロになっても、救われるのはまた、音楽。

ライブはあと2本。
こんなときだからこそ、聴いてくださる一人一人のことを考えて、一つ一つのライブで、しっかりと歌います。

よろしくお願いします。



***


会社員の頃、働くのがどうしようもなく嫌になって逃げたいときに手っ取り早かったのは、マンガをツ●ヤで借りてきて読むことだった。
それを今やる。結局変わらないんじゃないか!
東京タラレバ娘が面白かった。
あと映画も見ようかなと思って、インストールと、リリィ・シュシュのすべてを見てみた。
インストールはよかった。気軽に見れた。神木少年尊い。
だがリリィシュシュは気軽に見るものではなかった。
ドーンと残されたけど、美しさもある、不思議で壮絶な作品だった。
ズキズキとどうしようもなくは痛まない。今わたしは中学生の世界にはいないし、いつか抜け出せるものだからかな。
いつか抜け出せるとはいっても、地獄のような環境にいる最中では、時間は死ぬほど長く鉛のようで抜け出せないように感じるのだが。
中学時代って、歯止めがきかない部分があって、ある意味高校生より怖いのかもしれない。浅はかで、一歩踏み外せば闇で。こんなだったなと思い出した。
作品の中で、誰も救われなさすぎて、終わったあとも頭の中で登場人物のことを考えて続けてしまった。
あの子はレイプされ、坊主に、そしてあの子は自殺…これが畳み掛けてきたのが個人的に辛かったな。
そしてあの子は、あの子を殺した。
あの子たちはどうしたら救われたのかなと思う。
世界は広いのに、小さな世界で灰色に生きるしか無かった、あの子たちよ。
稲穂の風景が、やたら美しく、目が眩んだ。


***


ひとって、こんなにも簡単にいなくなってしまうんだ。
地元でお世話になっているクラブでよくプレイされていたDJの方の訃報を聞いた。
そのクラブの仲間たちのSNSでのざわつきを見ていて、もしや、と思ったらそのもしやだった。
彼とはあまり直接は関わったことはないが、彼のサマになるかっこいいDJ姿はしっかり覚えてるし、同じようなコミュニティにいた。
彼は癌の闘病中であった。
ツイッターでも闘病中の様子が呟かれていて、どうにか良くなってほしいと影ながら思っていたが、思ったようによくなってないみたいで、いつかそのときがやってくるのかと思っていた矢先のことだった。
まさか、こんなにあっという間に来るなんて。
先月確かDJされてなかったか?
この間の年末年始のカウントダウンパーティーでもプレイしていたよね?
ほんとうに、彼の名前をあのクラブのスケジュールで見かけることはなくなるのだろうか。寂しい。

あまり直接は関わったことが無かったものの、彼とはツイッターでつながっていた。
ほんの半月前、わたしは珍しく彼からリプライを受け取り少し会話していたのだった。
よく私は愚痴をこぼしてしまうのだけど、そのときは、必死で毎日昼間の仕事に行ってるのにうまくいかないというツイートをした後、必死ってどこからが必死でしょうね?という返信を彼からいただいた。
きっと彼は、本当に、必死に、戦ってたからこういう言葉を向けてきたのであろう。
そのとき、話のついでに、頑張ってくださいと何か言葉を掛ければよかっただろうかと少し後悔している。
あまりにも突然で、そしてその時が来てしまってからでは遅いことを痛感した。
そして無駄な労力を使わせてしまったのでは。ごめんなさい。

彼のDJのキャリアは長く、多くの人に慕われていた。
よく知るあたたかい仲間たちが悲しんでいる。惜しんでいる。わたしも悲しいよ。

あちらでは、もう病気を気にすることなく、思い切りプレイし続けていて下さいね。
また会えた時は乾杯して下さいね。
ありがとうございました。


***


生きなければと思った。
突入した連勤も東京も、とにかく、生きねば。

あさがやにて

わたしは大人しいほう。しかしそう過ごす窮屈さを解消するためか、自己顕示欲が強いせいか、ツイッターではよく呟くほう。
上京して一人暮らしを始めて一人の時間が増え、さらに神木氏のこともどんどんこじらせ、呟きがとっちらかりまくりフォロワー減り気味、これでいいのか、すっきりしたツイッターがやっぱ見やすいよな、ミュートもリムーブもされないよなと思っていましたが…。
ブログに書きゃーいいのだよね!
今までの鬱々したブログだけがブログじゃねえ、もともとはみくしー日記とか、過去HNを設けてやっていたブログで、長文ライブレポとか書いてた頃もあったしさあ…。
ゆっくりと吐き出す場所が必要。
140文字じゃ呟ききれないことも多い。
きちんと言葉を紡がないといけない。

てことで。


もう一昨日ですが、3/24(木)、阿佐ヶ谷はザムザにて。
NUUAMM(ぬうあむ)という、青葉市子さんとマヒトゥ・ザ・ピーポーさんのユニットのライブを見に行きました。



もともと青葉市子さんが好きで、NUUAMMは彼女が参加しているということで気になっており、昨年秋頃、2014年に発売されたCDをようやく購入してみた。

NUUAMM
https://www.amazon.co.jp/dp/B00OTQR0VI/ref=cm_sw_r_cp_awd_uKa9wbFKSF9MR

コレが思いの外よくって。
上京したてで大変な頃、気付けば幾度も再生ボタンを押して、寄り添ってくれた。
軽やかに無垢に歌っているけど、その中で人や世界の真実を見せているような。
よいこともわるいこともあるこの世を見透かして、ふふふと笑っているような。
飲み込まれていました。

ライブの開催を知り、行くのを即決。
次のライブは決まってないので行ってよかったなと改めて思う。

今回は100人限定の特別感溢れるライブでした。
会場は、阿佐ヶ谷の「ザムザ」という、名前も会場自体も雰囲気溢れる場所。



高知の蛸蔵をもっと古びさせたような内装。古い蔵。
座席はひな壇状になっており、1番下のお客さんはステージと同じくらいの目線。
真ん中くらいの段の丁度中央くらいに座ったけど、ひな壇状になってるからステージが見渡せるし、近いし、すごくよかったです。

楽しそうに色んな楽器を使って演奏するふたりがほんとうに素敵でした。
市子さんは、市子さんソロのライブのときは青葉市子!なのに、NUUAMMではちゃんとふたり、で、おお、となりました(日本語…)。
改めて見てギターが上手すぎて驚嘆。
リズム感、ビートがすごい。楽曲を引っ張る。
ギターだけでも聴き惚れちゃう…。
ああ頑張ろうと思いました。

マヒトさん、あどけない感じの声ですが各所ハッとする言葉をうたっていて魅力的です。
自由に演奏されるお姿がよかったです。ファッションも。赤い!ジャージ!
髪が市子ちゃんとお揃いばりに長くてびっくりしました。長い髪から男前のお顔が。ちょっとドキドキ!

バーブが気持ちよかったなあ…。
時間の墓場、なつばくだんふゆだるま、もうみどり、そしてアンコールに、さっぴー!
ここらへん聴けてよかったなあ。
ニコニコしちゃった。
ふたりとも、音楽のためにあるのだなと感じた。

ふわりふわりと軽やかに音楽と戯れるふたりによって、わたしもまたふわふわとした気分になり。
終演後、ルンルンで夜の阿佐ヶ谷を駅まで歩いた。
夜の阿佐ヶ谷ははじめてだった。
スターロード。昭和レトロな雰囲気。ひしめく飲み屋のあかり。漂ういい匂い。
最高の感じでしかなかった。
今度絶対、飲みに来ようと誓うのであった。


こんな、日常とは違うところへ連れてって心のトゲをやわらかくしてくれる。
音楽は素晴らしい。

どこまでも連れて行ってくれるようなな、そしてけして答えはくれないような。

NUUAMM、すばらしいひととき、ありがとうございました!

過去について

新年になって更新できていませんでしたね。
ほんとは近況を色々書こうと思っていましたが、今回1つの話についてしっかり書くことにしました。自分のために。届くなら、誰かのために。
その他の近況についてはまた書きたいです。

自分のことを許せる気持ちを、今頃になってようやく持てるようになってきたというお話。
うまくいかないことがあると責めてばかりだったのです。
自分の人生を振り返りながら書きます。





1年前のブログにも書いたが、私には、場面緘黙という症状で過ごした幼少期9年間がある。小学校卒業まで、幼稚園、小学校でほぼ喋っていなかった。
(※場面緘黙とは→http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/note/n360832)
発端は、幼稚園入園時、母から離れる初めての環境が不安だったのだろうか、多分朝行った時、先生の前で泣いて?1日喋れずに過ごして、そこからずっとズルズル喋れず、私は「喋らない子」になった。「喋らない子」が急に喋るとおかしいと思われるだろうから、ズルズルと喋れない。家や、幼稚園外でできた友達とは普通に喋る。
そして小学校では、幼稚園で一緒だった子もわりといたから、変に思われるかなと、また急に喋り出せず、結局そのまま小学校時代を過ごしてしまった。自己紹介は恐怖でしかなく、発表のときは誰かに任せてばかり、コミュニケーションは頷いたり手紙とかだった?最後の方はささやきはしてたかな?もうあまり覚えていないけど、すごい、今思えば不便すぎるだろという…。それでも友達と遊んでたから不思議。でも色々迷惑かけたり誤解させたりしたんだろうな。多分、怒ってきた先生もいた。でも、小学校5、6年担任だった先生は、勉強したことや頑張ったこと、よく褒めてくれて、私のことを個性だとも言っていたらしく、本当に素晴らしい先生に担任してもらえてよかったと今になって思う。自信を持って!ってよく言葉かけてくれてたな。
喋れない自分を支えてくれた人たちには感謝しかない。

そして中学校はどこへ行くか考える時期になり、私はそのまま公立の中学へは行かず、中学受験をすることにした。自分のことを知らない人ばかりの環境に身を置くことで、再スタートをしよう、と。はっきりこの思いがあったとは覚えてないが、自分でも喋れないことにやばさは感じていたと思うから、ちゃんとこういう理由は持ってたと思う。勉強はそこそこできてたから、流れで受けた部分もあるかな?母と相談もしたような…。

そして中学・合格。学年で同じ小学校だった子は私を含めたった4人、クラスには0人という環境を手に入れた。私は多分皆の前で普通に返事して自己紹介をする、という今までできなかったことをし、見事に再スタート!
今思えばここで学校で喋れるようになって本当によかったと思う。
新たな喜び、しかし辛さもここから。
会話を続けること、自分を出すことが難しかったと思う。複数の会話も微妙ですね。今思ったら喋っていない時期があったからうまくいかないのも当たり前だと思うけど、喋るのなんて皆できて当たり前って部分があるから、自分を責めちゃう。自尊心の低下と孤独感。克服したと見せかけて、しっかり私に根を張っていた。思春期は決してラクではなかったよ。

緘黙だったことについては、それ以降に出会った人には誰にも自分から言わなかったし、自分の中でマイナスでタブーな時代になった。そもそも場面緘黙という言葉を知らなかった。他に同じような人がいるのも知らず、私だけの恥ずかしい経験なのだと思ってきた。
小学校のときの友達、ありがたいことに今では話せるようになった子もいるが、当時喋ってなかったから、どこまで喋っていいものかわからない部分がある。同窓会は皆でワイワイする感じで、輪に入りきれない部分を感じ、もう行くのを辞めてしまった。
小学校からの付き合いの友達は、きっと男女関係なく嘘偽りなく純粋にはしゃげる関係で、それができなかった私は、それが羨ましく、かわいそうだと思った。
でも、今でも連絡をくれる一部の友人は本当に感謝してる!当時も話せなかったとはいえど、色々遊びに誘ってくれた、友達。

中学、高校、大学、社会人。
少しずつコミュニケーションレベルは上がっていったものの、うまくいかないことはあり、その度暗い気持ちになった。
憂鬱との戦い。


そして一昨年、転機の一つが。
仕事でパンクして精神科に行った時に、付き添ってくれた母の口から漏れた言葉。「この子は場面緘黙だったときがあって…。」と。そんな言葉初めて聞いた。小学校4年ぐらいから数年間、病院へカウンセリングに連れてってもらってたのだけど、その時母は先生から教えてもらったらしい。長年どう片付けていいかわからなかったことは、1つの言葉だった。少し自分に対する理解が進むが、まだこの頃はあたたかい環境にいたため、しっかり調べることはしなかった。

昨年、上京して、うまくいかないことがあり、自分はなんてダメなんだ、この歳でなんで人と同じようにできないんだと結構なレベルで落ち込み、色々考えていて、「場面緘黙」のことを思い出した。これは自分のルーツなのでは。知らなければ、と。
SNSで検索してみると、なんとたくさんの同じような方がいた。
私と同じように以前緘黙だった方。
現在も戦っている方。
自分の中で長年静かに苦しんでいたことは、自分だけのことではなかった。
こんな過去を過ごしたのだから、うまくいかなくて当たり前だし、むしろできていることを大事にしなくちゃ、と思った。フタをしていた過去を少し開き、自分と向き合い、もっと大切に。
みんな頑張ってる、大丈夫。
まだ落ち込むことはあるけど、こう思える道ができた。これは大きな変化だ。

場面緘黙については、つい数年前まであまり世の中で知られていなかったらしい。私も聞いたことがなかったし。
しかし最近では、緘黙のことを広める活動をしている方がいたり、テレビで取り上げられたり、SNSで交流や発信できたり。いい時代になっている。
これからも動向を追っていきたいし、うまく付き合いたいと思う。

それに、緘黙経験者でシンガーソングライターの方も2~3人発見して、すごい、同じような方がいるんだなと思った。
うまく言えないから、歌で伝えようとするのでしょうか。
私は多分そんな感じだ。
歌詞にもね、多分出てる。

それにそれに、今までの辛い気持ちに、いつも寄り添って癒してくれたのは、音楽だ。いつもありがとう。


という訳で、今回はわたしの人生のブラックゾーンについて長々と書いてみました。
自分をもっと大切にしたいし、さらに進みたいし、場面緘黙への一般的な認識も広がって欲しいな。

長々と、お付き合いいただきありがとうございました。



2016.3.14
中越千春

2015年の瀬

あっという間に年末だ。
今年は上京という大きな変化の年だった。
ただ、計画性の無さや不器用さから色々うまくいかず、現在進行形で心がちょっと寂しい…。
今まで生きづいていたものが、後半、グレーになったような一年。

東京に来たら何とかなると思ってた。
決してそんなことはなく、結局は自分で何とかしなきゃいけない。
天才肌でもないし努力もしてない。
ただ、救ってくれた、譲れない音楽にすがっているだけ。
そして今まで見ないふりをしていたことが明るみになって立ちはだかってくる。
向き合っていかないと、ここから先へは進めない。

都合のいい甘い話など存在しないんだ。
自分から進んでいかないと。
まだ積み重ねていかないと。

今まで思っていた自分自身への価値は、ここで改めてバラバラになった。
これは必要なことだと思おう。

気がついたら25歳、あとたった4ヶ月で26歳。無駄に年を食っていて余計情けないけど。
素敵な大人になるという新たな目標も掲げて。

向き合った先の未来はきっと明るい。

そもそも音楽は幸せなものでなくちゃなのだ!
もっともっと、こんなわたしだけど、幸せを運べるように。

2015年、ありがとう。
2016年、さあ来い。

ホームシック

書く書く言って書けてなかったブログにようやく手がつきました。

東京での一人暮らし生活も4ヶ月が過ぎ、季節も変わり冬になってきております。

夢と希望を胸にベタベタに上京してきたわけですが、なかなか現実は厳しいですね。
辛さもあるだろうと予想はしていたんですが、実際に体験してみるのは全然違いますね…。

うーんなんだろ、バイトが辛いからが結構影響してんのかなー、悪い方に胸がドキドキする仕事。
今までやってきた仕事の中で一番、こんなにできが悪いものかと思わされるので、病む。わたしの中のイビツな部分がチクチクと刺される。

あと色々あるホームシック事情を連ねてゆきます。
お見苦しくて申し訳。

本格的にフルで働き始めてから、朝1人で起きてご飯食べて出勤するのが大変っておもった
いい年で何甘えたことぬかしてんねんておもいますよね
この25年間、朝は母が既に活動してて、起きないと声かけてくれて、ご飯もあったわけですよ。
あと仕事から帰ったら、母が声かけてくれて、猫と戯れて、ご飯をお腹いっぱい食べてたわけですよ。
誰もいないしなかなかお腹いっぱいご飯構えられないし仕事は辛いし
これ世の立派にやり遂げてる皆さんからしたらくそくらえレベルだと思いますが、一人暮らしってさみしいし辛いですね。

あと高知ではだいたいどっかのライブ会場行けば知り合いがいる状態だったので、日々、わりと交流してたんですが
東京は一からそれを築いていかないといけない
人も会場も多いのでなかなか地に足が付かないというか
高知で築いてきたものは、もとは人付き合いが下手なわたしが、生まれ育った場所で年月をかけて築いたもので、一から作るにはこんなに大変なんだ、と気付く

でも刺激はたくさん貰っていて、これは東京に来た甲斐あったと本当に思う。
次から次へと凄い人、音楽と真剣に関わり合っている人を見て、わたしの表現者としてのレベルを知って、取り組む姿勢が変わった。
本来なら地元でもやらなくちゃなんだが、天才でも努力の天才でも無くここで気付くパツァーンの人間。
しかし、高知より友達少ないしライブにお客さん呼べないし、CDもあまり売れずだし、ネットでの再生回数もネットで活躍するミュージシャン達のように伸びずだし、若く魅力的なミュージシャンが次々と出てきて焦るし、刺激を受けた果てにこういった部分も病みに。
親からお金も借りてるし、安心させたいし、結果になればいいんだけど、そうすぐにはならない。

一人暮らし辛い仕事辛い友達少ない金無い音楽家としてとても満足いかない地位
要約するとそんなシックですね~やべ~よ

でも、ライブをすると、素敵な感想を貰えたり、また演ってよと言われたり、徐々にだけど知り合いも増えている。
高知にいた頃よりハイスピードで曲も作っている。

ほんと少しずつだけど仕事にも慣れていってる。

今まで全くだった料理をするようになった。

でも以上のシックでまだまだ寂しくて辛くて、プライベートで喋ることが減ったからもともと上手でないおしゃべりがさらにあやふやになって、
今日おかんが電話してくれて、猫の声も聞かせてくれて、普通に、普通に会話するのがなんかかけがえなく思えて、少し懐かしい、やっぱりわたしの一部だったんだなと思って、泣いちゃったわ。上京あるあるでしょうか。泣いちゃうあるある。

いつでも帰ってきていいよって言葉は大切なお守りなの。

辛いけど、まだ帰れない。
帰ってももやもやするだけ。

体壊したら終わりだから、そのへんはサインを見逃さないようにしないと。


あっツイッテーで書く書く詐欺した魔女宅のはなしは、
ハロウィンライブでキキの仮装をしようと思って、なんかネタになればと思いDVD借りて見返してみたのだけど、上京した自分と、都会の街へ修行に出たキキが重なって、ラストでボロボロ泣いたって話だよ。
書く?
書きましょうか。すごい、長いですねこの記事ごめんなせー。

最初、キラキラと出発し新しい街へ降り立つも、思ったより歓迎されない。
親元を離れての新しい暮らし。大変だよね、孤独だよね…それにまだ12、13歳!?で…ヒトマワリチガウヨオバハンガンバレヨ!!
宅急便の仕事を頑張るも、魔法の力が低下し、自信を失ってしまう。
しかしラストでは無事にトンボを危機から救い、街の英雄となったのでした。
あぁ…キキ頑張ったんだね…ってボロボロ泣いちゃったよ…。
「落ち込むこともあるけど、わたし、この街が好きです」
って実家への手紙で書いちゃうのよ!書いちゃうのよーーー(号泣)
…多分前回見たのは子供の頃だと思うがこんなに泣くことはなかったよ…。
人生経験を積めば、感じることが違ってくるんですね。
キキは魔法、わたしは音楽という魔法と共に、新しい街でやっていきたいと思いました。


さて、吐き出したー。吐き出したよ。
ツイ消しならぬブログ消ししたくなるような内容でズーンて感じですが。
誰得記事ですが。

とりあえずリアルホームシックが読める記事かな…。

12月、1月とライブがたくさんあるし、あと1月は高知で帰省の際、某所で歌うことも決まってるので、
楽しんで、キラキラのステージを作っていきたいね。
ステージでは輝く。

最後まで読んでくれたひと、ありがとう。

この冬が終わる頃には、どうなっているかな?